東京大学大学院 情報学環・学際情報学府 The University of Tokyo III / GSII

研究Research

January 26, 2023

【教員インタビュー】吉見俊哉 教授(前編)An Interview with Prof. YOSHIMI, Shunya (Part 1)

3月末で吉見俊哉先生が定年退職されます。学生時代から47年間、東京大学にいらっしゃいました。ご退官を前に、編集部は吉見先生にお話を伺い、これまでの歩みを振り返っていただきました。前編では、情報学環長と東大副学長を務められた時期を振り返り、その一端を語っていただきました。

We conducted an interview with Prof. Shunya Yoshimi in anticipation of his imminent retirement at the end of March 2023. Prof. Yoshimi has been at the University of Tokyo for a total period of 47 years, including his time as a student. In the first part of the interview, he talked about his experiences while serving as Dean of the III/GSII and Vice President of the University of Tokyo.

*日本語は抄訳に続く(Japanese interview text follows English summary)

 

An English Summary of an Interview with Prof. Shunya Yoshimi (Part 1)

Prof. Yoshimi was Dean of the III/GSII from 2006 until 2009, during which two very significant institutional developments occurred: the founding of the Center for Integrated Disaster Research (CIDIR) and the launch of the Information, Technology and Society in Asia (ITASIA) Program.

Plans for the formation of CIDIR began in aftermath of the unfortunate death of Prof. Osamu Hiroi, whose career-long devotion to the study of disaster information had been a major feature of the III (and its predecessor ISICS). In order to preserve his legacy and further develop this important field of research, CIDIR was formed through the cooperation of the III/GSII with two other organizations in the University of Tokyo: the Institute of Industrial Science and the Earthquake Research Institute. It therefore became yet another expression of the ongoing project to overcome divisions in the academy between the natural sciences and humanities, uniting under a single umbrella the diverse aspects of the study of disasters and the human response to them.

Recent developments in society and in the academy have brought about an increasing intersection between the study of media and information and the study of Asian societies and cultures. Thus, a proposal for the joint formation of an international graduate program focused on media studies and Asian studies was greeted wholeheartedly by the then director of the Institute for Advanced Studies on Asia, Prof. Akihiko Tanaka. While other departments in the university already had English-only graduate programs, this was the first proposal for such a program in the humanities or social sciences. Thanks to the ITASIA Program, it is now possible for students to earn master’s and doctoral degrees from the University of Tokyo in media and Asian studies exclusively through the medium of English.

It was also during Prof. Yoshimi’s tenure as Dean that construction began on Fukutake Hall, named after Soichi Fukutake, whose generous donation made the new building possible. Prof. Yoshimi recounts two problems that occurred at the time. First, Tadao Ando’s design for the building included a key feature known as the “Thinking Wall”. This, however, was opposed by those who felt that it ran counter to the spirit of trying to do away with barriers in the academy. Second, the site for the new building was located on the edge of a historical street once lined with shops and merchants’ houses. When work began, artifacts from the Edo Era were discovered, requiring a proper archaeological excavation. This delayed the construction and incurred additional expense.

In 2010, having completed his term as Dean of the III/GSII, Prof. Yoshimi was appointed as Vice President of the University of Tokyo. In this post he had numerous responsibilities. One of these was as head of the Education Planning Office, taking the initiative in reforming education at the University of Tokyo. It soon became clear that a structural weakness of the university was its lack of university-wide organization and the tendency of individual departments to be overwhelmingly concerned with protecting their own internal interests. For example, there was no university-wide timetable and individual departments would decide for themselves what time to start and finish classes. This made it very difficult for students to attend classes in other departments from their own. When proposals for a unified timetable were made, departments objected because they wanted to continue giving classes of the same length as they always had. In some departments, classes lasted 60 minutes, in others 90 minutes, and in yet others they lasted 120 minutes. The compromise solution was to unify the class starting times, but to allow individual departments to determine the length of their classes. Therefore, the break-times between classes would vary between departments.

As Vice President, Prof. Yoshimi also served as Director of the Integrated Educational Research Center, which dealt with the development of e-learning, the creation of continuity programs between high school and university, and faculty development and training. Efforts in the latter area led to the launch of the Future Faculty Initiative (FFT), which was especially important given the University of Tokyo’s role as a training ground for researchers and educators taking up faculty positions in universities throughout the country.

Prof. Yoshimi was also involved in the creation of an international undergraduate program called Global Education for Innovation and Leadership (GLP-GEf IL). Whereas international graduate programs such as ITASIA already existed, the university did not yet offer any such program for undergraduates, despite the fact that many undergraduates possessed considerable English language skills and would pursue international careers after graduation. Rather than being limited to short-term overseas study, this program provides students with ongoing English educational experiences while in Japan through seminars led by international faculty members based at the University of Tokyo.

Another aspect of Prof. Yoshimi’s work as Vice President was the setting up of a university archive to properly manage the large quantities of material accumulated over the 100 years of the university’s history. Much of this material had previously been ignored, thus obscuring any lessons that could have been learned from the university’s past.

 

– 吉見先生は2006年から2009年まで情報学環長を務められました。この3年間はどのようなことに取り組まれましたか。

私が学環長だったときに一番エネルギーを注いだのは総合防災情報研究センター(CIDIR)、そしてITASIAプログラムの立ち上げだったと思います。

2006年4月に学環長になってすぐに、前社会情報研究所長で災害情報研究がご専門だった廣井脩先生が逝去されました。社会情報研究所は2004年に情報学環になっていましたが、現役の元研究所長が亡くなられたので、大学院情報学環という組織として弔いをしました。そのとき廣井先生の門下の方々の防災研究に対するただならぬ熱意に触れ、廣井先生が残されたこの熱意を何らかの形に変えていくべきではないかと思うようになりました。

いろいろ考えた末、当時の生産技術研究所長の前田正史先生と地震研究所長でいらした大久保修平先生にご相談し、防災工学と地震学、そして社会情報学という3つの組織を「3本の矢」としてまとめて、新しい組織を情報学環に作ることを計画し、全学の概算要求で提案し認められました。それで2008年にCIDIRが設立されました。その準備を進めている中で「これ三ツ矢サイダーだね」って誰かが言ったんですよ。それにうまくゴロ合わせて、総合防災情報研究センターの英語名称はCenter for Integrated Disaster Information Research(CIDIR)となった。三ツ矢サイダーっていうイメージが非常にフィットしたんですね。

CIDIRを立ち上げることは廣井先生がお亡くなりになったことが直接のきっかけではありましたが、情報学環という組織構造的にフラジャイルな仕組みを少しでも安定化させるために、生研と地震研という2つの附置研究所との連携体制を制度的に確固たるものにするという、それなりのしたたかな目的もありました。

理系での連携体制がうまくいったので、文系でも附置研究所との連携をしっかりさせたいと考えました。そこで、東洋文化研究所の当時の所長でいらした田中明彦先生に、アジアをテーマにした教育プログラムを一緒に作りませんかとご提案を申し上げました。今、アジアを見渡せば、Media StudiesとAsian Studiesがものすごく深い関係になっている、これからのアジアを理解するために、メディアとアジアをセットにする新しい大学院プログラムを東大の中に作りましょう、と。田中先生も非常に乗ってくださって、それだったら全部英語でやりましょうとご提案くださった。当時は東大全学見渡して、理系では英語だけの修士博士のプログラムがありましたが、文系は一つもありませんでした。私は田中先生のご提案に大賛成しました。こうして全部英語だけで、修士号と博士号が取れる、アジアとメディアをセットにした教育プログラムを、情報学環をベースに立ち上げる案がまとまっていき、これも認められてITASIAプログラムがスタートしました。

 

– 福武ホールの建設が動き出したのも吉見先生が学環長の頃ですね。

現学環長の山内祐平先生が、福武總一郎会長から寄付を取る調整をされ、福武ホールを建てるというプロジェクトがすでに始まっていましたが、実際に工事が始まったのは私の学環長時代です。山内先生と二人三脚で無事この建物を完成させるまで持っていくことができたことがもう一つの大きな仕事でした。

これに関しては、いくつも乗り越えなくてはいけない難題がありました。ひとつは、この建物のデザインに関係することです。安藤忠雄先生のデザインですが、建物の特徴である「考える壁」(Thinking Wall)をつくることに、学内やOBから反対が出たんです。「東京大学からできるだけ壁をなくす、壁を低くしていくことを一生懸命やってきたにも関わらず、新たに壁を建てようなどということは何事か」って、大変怒られる方がいらした。

だけどこの壁は建築的にもデザイン的にも必要でした。危ないでしょ、なかったら。落ちちゃいますよね。そこで当時の小宮山宏総長に、我々はちょっと困っています、この壁は必要ですとご相談に行ったら、安藤建築にご理解くださった。それで、安藤先生にお電話をした。安藤先生は少しひよってて、「あの壁ちょっと低くしようと思ってる」とおっしゃった。私は、「いやそんな必要はありません。先生は先生のデザインで、一番いいと思う高さにしてください。我々がお支えします」と申し上げました。

もう一つ厄介だったのは、考古学的発掘調査問題。江戸時代、ここは加賀屋敷の外なんですよ。本郷通りは中山道で、その中山道沿いの加賀屋敷のちょっと外の塀沿いに商店が並んでいたところなんです。麹蔵とか酒屋とかね。ここを掘ったら、江戸時代の花瓶や茶碗なんかがいろいろ出てきちゃった。そうすると、全部発掘調査しないといけない。その発掘調査にかかる費用は、工事をする主体が負担することになっていて、しかも下手したら半年とか1年とかかかるわけですよ。発掘している人の給料を全部払うわけだから、お金が結構かかる。半年続いたら、何千万円。どこか別のところが費用を持ってくるなら何の気にもしないんだけれども、自分たちのお金がどんどんどんどんなくなっていくので、心安らかからず、でしたよ。発掘調査をしていた文学部の考古学の研究室の方に、とにかく短期集中というか、期間を狭めてくださいっていうお手紙を何本も書きました。それに効果があったかどうかわからないし、気休めだったような気もするんだけど、いろいろありましたね。

 

– 学環長の任を終えられたのち、副学長に就任されました。どのようなことに取り組まれたのでしょうか。

何とか2009年に情報学環長を終えましたが、新聞研究所時代からお世話になっていた濱田純一先生が総長になられて、2010年の4月からお手伝いすることになりました。その間、いくつかの任務を担いました。ひとつは、当時あった教育企画室長。教育企画室は、全学の学部研究科の中堅の次のリーダーになりうるような方々に集まっていただいて、東大の教育の改革の基本的な方向、イニシアチブを示していく、実質的に総長直下で教育改革の企画をしていく組織でした。同時に大学総合教育研究センター長をやりました。ここは全学的な教育マターについて、例えばeラーニングの仕組み作りだとか、様々な教育関連の調査だとか、いろんなことを実施していく組織。教育企画室と大総センターの役割分担は非常にはっきりしていて、いいデザインでした。全体の意思決定権は教育運営委員会や科所長会議など部局長が集まる会議で、そこへ提案をしていきました。

東大の中枢にいて強く感じたのは、東京大学はとてつもなく縦割りの大学であることです。それぞれ自分の部局(学部)のことをまず第1に考えて、部局と部局の利害は必ず対立するんだけれども、部局間の利害が調整されれば、大学はそれでよしとするっていう、そういう仕組みでずっと動いてきた組織なんですよ。

しかし学生はいい迷惑ですよね。とりわけ後期課程になったら、あなたはここの学部のここの研究室、と全部囲い込まれるわけですよ。東大はそれぞれの学部研究科、専攻、コース、あるいは研究室に学生を囲い込んでいく仕組みを発達させて、これまで安定性を維持してきた。でもこれは何かやっぱり問題があるなと思っていました。教育企画室、あるいは大総センターとして何か取り組むからには、その壁を突破するような横串の仕組みを、東京大学の中の水平統合の仕組みとして入れていくべきではないかと思いましした。

最初に教育企画室でやらせていただいた仕事は、全学の時間割の統一です。驚くべきことに、それまで東京大学は学部ごとに時間割が全部違っていました。まず始まる時間が違う。1時間目が、ある学部は8時半に始まり、ある学部は8時50分、ある学部は9時、全部バラバラですよ。しかも、一コマの長さが全部違う。ある学部は120分。ある学部は90分。ある学部85分。ある学部は60分。バラバラ。そうすると、ある学生が一時限目を終わって2時限目他学部聴講に行ってみたら、その学部の2時限目はもう半分ぐらい終わっちゃってるみたいなことがざらにあったわけですよ。これはおかしい、統一されていた方がいいって、皆さんおっしゃるんですよ。でも、統一しましょうって言って案を持っていくとね、いやそれは困る、うちはずっと1コマは120分でやっていた、うちは80分でやってきた、うちはこの時間で始まることが決まっている、それは変えられないと、総論賛成各論反対の典型になるわけね。

いろいろ考えて、これは休み時間で調整するしかないということになった。それぞれのコマの長さは学部の自治に任せるけれど、1限目は全学統一で、例えば8時50分なら8時50分で全部始まる。2限目は、例えば10時なら10時で全部始まるっていうふうにすることによって、他学部聴講ができる。休み時間がすごく長い学部もあれば、急いで動かなくちゃならない学部の学生もいるけれども、とにかくそこは統一できている形にしましょうということで基本的には合意しました。その時に学食に行く時間がないかもしれない学生もお弁当が確保できるように、東京大学の学内にキッチンカーが入ることになった。

他にも大学院共通授業科目を作ることや、全学のシラバスのフォーマット統一をやりました。どちらもある程度はできましたが、なかなかうまくいきませんでした。

一方、大総センターの中で取り組んだのは、まず、高校と大学の接続性のプログラムです。教育学研究科で高校と大学の接続プロセスをいろいろやってらっしゃった、認知科学がご専門の三宅なほみ先生に大総センターに移っていただいて、国の概算要求を取って、高大接続のプログラムを始めて、ゆくゆくは高大接続センターを作っていこうっていうプロジェクトを始めました。さらに、出口の方に関しては博士課程の大学院生やポスドクに対して教育方法のトレーニングをするフューチャーファカルティプログラム(FFT)を立ち上げました。高校と大学の接続とともに、若手研究者が全国のいろんな大学に教えに行くときの連続性を、東京大学の社会的な責任として作っていくべきじゃないか、と思っていました。その後、大総センターの組織自体が小さくなってしまい、これも道半ばです。

 

– 学部レベルの国際的な教育プログラムを立ち上げられたのもこの時ですね。

情報学環の大学院教育に関してはITASIAを作ることによって英語だけで修士博士を取れるプログラムが順調に発展していました。けれども学部のレベルでの国際化がものすごく遅れていた。学生はみんな実は英語は結構できるし、実力があるのに全然海外に行かない。どうせ企業に就職すれば行かせてもらえるからと思っている学生がものすごく多くて、それは変えるべきだと思いました。それで東大ならではのグローバルリーダーシッププログラムというものを組み立てていこうと濱田先生と、教育担当理事副学長をされていた佐藤慎一先生にお話して、GLP-GEfIL(Global Education for Innovation and Leadership)という学部横断の教育プログラムを立ち上げました。

基本的なコンセプトは、1回や2回、海外留学をさせるだけでは終わらせないっていうことですね。事実上副専攻に相当するような、比較的大きな規模の英語だけのプログラム、全て英語でやるプログラムを学部課程に作っていこうと。このプログラムの全体のディレクターにニコラ・リスクティン先生に来ていただいた。そして東大の中で英語で教育ができるこれはと思う先生方に、学生をいわばゼミのような形で見てもらうことをお引き受けいただいて、2回の中期の海外サマープログラムと組み合わせ、一生懸命やっていただきました。

当然これを展開していくときの最大のポイントはお金の問題でした。当然ながら数億単位のお金が必要だということは明らかでした。企業トップの方々に向けて当時の東大の渉外本部の方たちと、40社以上もまわりました。いろんな会社の方々と接して、社会勉強になった機会でもありました。

それから、濱田総長の下でもうひとつ私が担ったのは大学史料室長です。東大100年史を作ったときに集めたいろんな資料が安田講堂にあったんですよ。塔の上の方や貴賓室の中に、資料入りの古いダンボールがバーっと積まれていた。でもダンボールを誰も開けないわけ。100年史作ったらもう東大の過去は誰も振り返らなくなった。この大学はもっと歴史意識を持つべきだ、大学としての文書館を作るべきだと濱田先生に強く訴えて、大学の文書館を作るプロジェクトが少しずつ始まりました。森本祥子先生に史料室の中心になっていただき、濱田先生と佐藤慎一先生と私が史料室を文書館に展開していく、そのプロセスをまず始めたんですね。いまは文書館もちゃんと確立されていて、森本先生中心にしっかり続いています。

濱田総長の下での5年間でやったことは、東京大学に厳然とある縦の壁に少しでも横串の穴を開けること、それから少しでも学生の能力を本当に発揮されるような形で、国際的な経験を積ませるプログラムを作ること。さらに大学自体がしっかりと歴史意識を持つような仕組みを作っていくことだったと思います。(後編に続く)

 

企画:ウェブサイト&ニューズレター編集部
インタビュー:開沼博(准教授)、山内隆治(学術専門職員)、柳志旼(博士課程)
インタビュー・構成:神谷説子(特任助教)
英語抄訳:デービッド・ビュースト(特任専門員)

Interview: Hiroshi Kainuma(Associate Professor), Ryuji Yamauchi(Project Academic Specialist), Jimmine Yoo(PhD. student)
Interview & text: Setsuko Kamiya (Project Assistant Professor)
English summary: David Buist (Project Senior Specialist)


主担当教員Associated Faculty Members

教授

非公開: 吉見 俊哉

Professor

YOSHIMI, Shunya