東京大学大学院 情報学環・学際情報学府 The University of Tokyo III / GSII

研究Research

March 28, 2022

【教員インタビュー・特別版】水越伸 教授(後編)An Interview with Prof. MIZUKOSHI, Shin (Part 2)

メディア論がご専門の水越伸先生。2021年度末で東京大学から関西大学へ異動されるのを前に、編集部でお話を伺いました。後編では、学環・学府設立までの経緯とこれからの学環・学府へのメッセージをいただきました。(前編はこちら)

*日本語記事は抄訳に続く(Japanese follows English)

 

An Interview with Professor Shin Mizukoshi (Part 2)

In the second part of the interview, conducted before his planned move to Kansai University at the end of the 2021 Academic Year, Prof. Shin Mizukoshi told us about the background to the founding of the III/GSII and his message for graduate students. 

As a member of the working group for the setting up of the III/GSII, Prof. Mizukoshi is in a unique position to tell the story of how it came to be founded. The working group was initially dominated by professors with backgrounds in the natural sciences and engineering, who had already devised a concentric circle model for the new graduate school. In this model, mathematics was situated in the innermost circle surrounded by natural language processing and computer architecture in the next circle. Robotics and human interface research were placed in the next circle, and socio-information and communication studies were relegated to the outermost periphery.

A minority of working group members, including Prof. Mizukoshi, Prof. Junichi Hamada and Prof. Hidetaka Ishida, and others disagreed with this mathematics-centric vision and tasked themselves with envisioning an alternative. The resulting “peanut model”, principally designed by Prof. Mizukoshi, proposed the idea of three fields existing interactively like three seeds in the same pod. These three fields were the sciences/engineering, the humanities/social sciences and art/design, which subsequently became the three pillars of the III/GSII.

Both models were presented to the university administration and Ministry of Education as rival proposals. The concentric-circle model seemed to be overwhelmingly favored, but surprisingly the university administration and Ministry of Education preferred the “peanut model” because of its uniqueness. Those responsible for proposing this model were then tasked with refining it and rapidly developing concrete plans for the new graduate school. University President Shigehiko Hasumi and other members of the university administration also played important roles in the III/GSII’s founding in what became one of the few cases since the Meiji Restoration of a guerilla project succeeding within a highly bureaucratic organization.

The III/GSII’s name was the result of a long process of deliberation. The eventual choice of “KAN” (the second character in “GAKKAN”) can be partially credited to University Vice President Masahiko Kobayashi, whose background was in agriculture and biology. He may have favored “KAN” because it is also used in the word kankyo, meaning “environment”.

For its first four years of existence, the III/GSII existed alongside the already existing Institute for Socio-information and Communication Studies (ISICS). However, in 2004, as part of the reorganization of Japan’s national universities as independent corporations, research institutes with fewer than 30 members were faced with the choice of dissolution or merger with other university departments. ISICS chose to merge with the III/GSII, a move that had not been envisioned at the time of the III/GSII’s founding.

The merger of ISICS with the III/GSII involved some degree of reorganization within the latter. Specifically, it led to the establishment of four distinct graduate programs within a single academic department. Later splits and additions added further programs eventuating in the current six programs.

In Prof. Mizukoshi’s view, the III/GSII’s lifeblood is its students. By attracting unique and interesting students, it is able to maintain an appealing research environment and attract new faculty members. No other graduate school in Japan enjoys such diversity among its students, having roughly equal numbers in the natural sciences/engineering and humanities/social sciences, with the addition of a significant proportion students specializing in art/design. The faculty is similarly diverse, but it is the students who are the “worker bees” who do the job of cross-pollinating the different fields of knowledge.

The school’s mascot, based on the Greek mythological creature Chimera composed of incongruous animal parts, is a good representation of its character. Such a creature, although initially monstrous and frightening, has a special beauty precisely because of its internal incongruity. While mixing research fields that are usually kept separate may entail a degree of danger, it also holds the promise of great riches.

The establishment of the III/GSII was motivated by a desire to break holes in the university’s very vertically ordered structure and stimulate new knowledge creation through the development of horizontal relations among diverse fields of specialization. At one stage, the setting up of other interfaculty initiatives in life sciences and Asian studies had been considered, but so far only the III/GSII has succeeded. Having been founded on a university-wide consensus, the III/GSII has emerged as a place of experimentation showcasing what the university could become in the future.

Even as other departments have subsequently sought to join the interdisciplinary trend, the III/GSII retains an advantage precisely because it is the only organization in the university that has been interdisciplinary in its conception and design. While it cannot compete with other departments in conventional disciplinary research, its institutionalized interdisciplinary collaboration and diverse student body give it the edge in innovative work and may provide answers to potential future crises.

 

– 水越先生は学環・学府設立の準備作業に参加されたそうですが、学環・学府はどのような経緯でつくられたのでしょうか。

蓮實重彦総長が1998年暮れに、バーチャルな大学院を情報学の分野で作ろうとおっしゃいました。当時すでに新研究科を作るには既存組織のスクラップ&ビルドが前提でした。本部が学内すべての研究科や研究所の名前を見たところ、唯一情報という看板を掲げていたのが、全国の国立大学の附置研究所で最小の社会情報研究所だった。

1999年初頭に新研究科構想が具体化し、社情研から上のレベルの委員会に出たのは濱田純一先生でした。その下のWGには本来なら吉見俊哉先生が適任でしたがサバティカルでいらっしゃらなくて、僕が入ることになった。そのときの濱田、水越の心境は、新聞研究所以来の伝統や蓄積が潰されて、その上に理工系の砦ができるのは納得いかない、というものでした。

WGのはじめから理学系と工学系の有志の先生方が、すでにキッチリした構想案を提出されたんです。その案を僕は同心円モデルと呼んでいます。真ん中に数理があって、その外に自然言語処理やアーキテクチャ、その外側にロボティクスやGUIなどがあって、一番外側に社会情報学がちょこっとある。情報学といえば数理中心主義が当然だというわけです。

それに対して違和感を唱えたのは、僕や濱田先生に加え、総合文化研究科の小林康夫、石田英敬、教育学研究科の佐伯胖、史料編纂所所長の石上英一などといった人たちでした。工学系の原島博先生なども数理中心主義ではなかった。僕らは同心円モデルへの対抗案として、文系と理系、アート・デザイン系の多様な学問が相互連関しあいながら情報学ができている種が3つ入ったピーナッツのようなモデルを構想しました。その図は僕が描きました。しかし同心円モデルは圧倒的に優勢で、ピーナッツ・モデルは実質的にはダメだけれど形式的に出された代案に過ぎませんでした。

いずれにしても、同心円とピーナッツの2案が、98年度末に東大、および文科省に提案された。今でも覚えていますけど、ピーナッツ・モデル案を提出した時に、「ああ、一応は出したけど負け犬の遠吠えで、ピーナッツは同心円にやられるんだな、新聞研が1949年に創設されて50年目の節目となる1999年度に、この組織はなくなりますとお世話になった先生方や学生たちに言わないといけないのだ」と悲壮な思いでした。

ところが年度の変わり目に驚くべきことが起こった。東大本部、および文科省が、同心円モデルではダメだと。それでは単なる第二工学研究科を作ることになりかねない。だったら既存の研究科で、専攻やコースの組織改正をすれば済む話だと。1990年代にいくつかの国立大学にできた情報学関連の大学院の様子を、虎ノ門はとてもよく見ていたのでした。

一方で、ピーナッツ・モデルはこれまで見たことがないユニークなものであり、東京大学であれば実現できるのではないかということになった。形式的な代案に過ぎなかったものが認められたわけです。そうなると野党のように批判だけでは済まなくなり、濱田先生はもちろん、僕も新たな大学院構想に本格的に取り組まざるを得なくなりました。

1999年度が始まると2000年4月を目指して、猛スピードで新大学院構想が走りました。濱田先生が全体の取りまとめ役となり、原島博先生(工学系)、米澤明憲先生(理学系)、小林康夫先生(のちに石田英敬先生:総合文化)、西尾茂文先生(生研)の、「5人組」と呼ばれた文理のリーダーたちがスクラムを組んで進めた。新たな大学院は独立研究科なので、事務の人がいない。結局僕が、本部の大学院係の方々にサポートしてもらって文書作業をとりまとめました。夢を描ける人が、偶然なのか時代なのか5人いたんですね。蓮實総長も、この件を担当した小林正彦副学長も応援してくれた。明治以来の巨大な官僚機構の中に、突如としてゲリラ的な企てが起こったんです。

ちなみに同心円モデルはその後より豊かにバージョンアップし、情報学環・学際情報学府と連携しながら、2001年度に創設されることになりました。それが情報理工学研究科です。情報理工と学環は双子のようにして誕生したのです。

新大学院は早い段階で教員が籍を置く研究組織と学生がいる教育組織に分けてそれを一体とする、筑波大学方式で構想されました。しかし名称は、二転三転しました。学環という名称は、濱田先生と原島先生のメールのやり取りから生まれました。「まさか、学環はないでしょうね」などといいながら小林副学長に持っていったところ、小林先生は農学生命科学の蚕の研究者だったので、エコロジカルな「環」に響いたのだと、僕は思います。すぐ「学環で行きましょう」ということになった。学環、学圏、そして学素というエコロジカルなニュアンスのユニット名称も考えました。最初は、総合情報学院という研究組織と総合情報学教育課程という教育組織を併せて総合情報学環としていた。ところが学内から、総合と銘打たれては自分たちのところで情報関連の教育研究がしにくいとクレームがでたそうで、結局今の名称に落ち着きました。

 

– 学環・学府は結局、社会情報研究所とは別組織として生まれたのですね。

はい、社情研は2000年以降も残ります。濱田先生と僕は、基幹教員として情報学環に移りました。僕は新たな大学院づくりに大学行政の仕事として取り組んだつもりでしたが、1999年の6月ぐらいに浜田先生に、「君と僕は新しい大学院へ移籍せざるを得ないから、覚悟を決めてね」って言われました。びっくりですよ。何らかの形で関わるとは思っていたけれど、自分が社情研を出るとは思っていませんでした。

ところが2004年、国立大学の独立法人化に伴い、文科省が全国の附置研究所でスタッフ数が30名以下のところは合併など組織統合を図るように打診してきた。助手まで含めて15名前後しかいない社情研に残された道は3つありました。1つは東大の文系4研究所、すなわち東洋文化研究所、社会科学研究所、史料編纂所と統合し、その一部門になるという道。次は、学環・学府と一緒になる道。3つ目は解散分属です。結局、社情研は2つ目の道を選んだ。この合併は、学環・学府設立時はもちろん、文科省があんなことを言い出す2003年度後半までは、想定されていなかった。見方を変えれば、学環・学府という構想は、独立法人化という力学以前に、それとは別の知的社会的ダイナミズムから生まれたのです。

それまでの学際情報学府には文理の区分がなく、社会人やアーティストのための実践情報学と新卒学生を対象とする、よりアカデミックな学際情報学という2つのコースしかなかった。ところが社情研との合併で、社会情報学独自のコースを作る必要がでてきた。そこで従来の学際情報学府は、文化・人間情報学と学際理数情報学(のちに先端表現情報学コース)の2コースに分かれた。2年後、坂村健先生らが総合分析情報学コースを作り、合計4コースに分化した。その後、ITASIA、生物情報統計学コースができた。原始の混沌から発展して分化し、冷えて固まった。でも専攻は最初から1つだけ。いろいろ事情があっても専攻を分けずに1つのままで来たことは、学際性を担保する上で大切なことだったと思います。

 

– 学府の学生に今後どんなことを期待されますか。

学環・学府がいまだに面白い場所である理由は、ずばり、院生の存在です。ユニークで魅力的な学生が相変わらず来てくれているから、この大学院は保っている。面白い学生が来るから、あそこはなにか面白いことやっているなということで、学内の面白い教員たちが来てくれるわけです。

文系と理系のボリュームがほぼ半々、さらにアート・デザイン系の教員や学生も2割くらいいるという多様性のある知的生態系を備えた大学院は、いまだに日本では学環・学府しかない。2010年代後半にいろんな問題が起こったけれど、この知的生態系があるから内外から面白い学生が来る。文理、そして美(アート・デザイン系)の越境や交流は、教員ではなく学生がミツバチのように媒介して生み出されるものです。

学環・学府10周年記念で、キメラくんっていうマスコットを作りました。ギリシア神話に出てくる、頭が獅子、胴体が牡山羊で尾が竜の怪物。普段は人々から嫌がられたり遠ざけられたりしているんだけれど、いざというときに信じがたい力を発揮して人々を救ったりする。キメラは文系とか理系に収まらないから「醜い」などといわれるけれど、じつはこの世のものと思えないほど美しい存在です。学府の院生になるとはキメラになること、その覚悟を持つということです。キメラは希少で、周縁的だけど、世界を救う力を秘めている。
別の言い方をすると、異種混淆であることの、危険だけど豊かな感じを大事にしてほしいです。学生だけでなく、先生方もキメラくんでいてほしいですね。

 

– これからの学環・学府にメッセージをお願いします。

情報学環を作った当時、情報学環が成功したら生命学環やアジア学環も作ろうという議論が、東京大学にはありました。原島先生流に言うと、東大は19世紀以来、縦に深い穴を掘り学問を深化させてきた。学環はその縦糸を編みあげるための横糸だと。学問の環状の横糸だから学環。既存の研究科とは別の立ち位置にあって、しかしそれらと共生していく。そのための不可欠な要素が流動教員制度であり、学環の構成メンバーは絶えず変化していく。そうした教員とともに学ぶ学生たちが学府にきて、ミツバチとして飛び交い、多様なプロジェクトが展開する中から、新たな情報知が生まれる。この柔軟で可変的なモデルがうまくいったら、生命やアジアについても同じモデルで展開してみようという構想でしたが、ついに学環は情報学環しかできなかった。その大きな原因は、独立法人化という国家政策にあったと僕は思います。ただ学環・学府は、全学の合意のもとに出来た大学院だったから、結果として様々な新機軸の実験場、東大の未来を示すショーケースとなった。キメラの巣はそうやって生きながらえてきたのです。

学環が情報学環しか存在しないことは、危機的であると同時にアドバンテージでもあります。ところが今、それが見えにくくなっている。なぜか。学際はどの部局でもやるようになったからなどと言われますが、本当でしょうか。学際の能書きはあちこちに貼られていますが、本当に稼働している学際は、いくつもの教育研究上の制度的仕掛けと面白い学生がいなければ実現しません。さらにいえば学環・学府は、東大の数多ある縦糸の一つのように自らを擬装してはいけない。普通の縦糸なら、既存の研究科の方が強いですよ。東京大学のただ1本だけの横糸として、キメラとしての運命を生きなければならないと思います。今後さらに大きな組織改編が起こるかも知れない。キメラの巣さえ確保できれば、そのことを恐れなくていいのではないでしょうか。
大学がとてつもない危機に陥った時、僕は、キメラだけが異能を発揮してそれを救うことができると思っています。

僕のメディア論も、学習環境デザイン、科学技術社会論、情報デザイン、メディア・アート、文化人類学や民俗学、情報工学などとさかんに交流する中からキメラに生成変化しました。つまりそれは、みなさんとの交流の中で、学環・学府で育まれたメディア論なのです。4月から赴任するのは関西大学社会学部ですが、社会学部という檻には収まらないだろうな、どうなるのかなと、今から不安というより楽しみです。(笑)

 

企画:編集部
インタビュー:岡美穂子(准教授)、福嶋政期(助教)、柳志旼(博士課程)
インタビュー・構成:神谷説子(特任助教)
抄訳:デイビッド・ビュースト(特任専門員)